竹の空間

京都の竹林が外国人観光客に人気だとか。

実際に訪れたことはないけれど、写真や映像を通してでも心地良さそうな空気感が見てとれる。
それらしい散策路が用意されているだけで、余計な小細工はなし。
竹林そのものの美しさにフォーカスした点が◯。

竹は欧州や北米あたりには生育していないこともあって、その竹を素材とする日本的な「モノ」。茶筅や茶杓・茶室の一輪挿・庭のししおどし・手水場の柄杓・筍・お造りの器・七味入れ、、、尺八・釣竿・物干竿・竹馬などなど、
それら名脇役との出会いも旅の思い出に彩りを添える。

また、建築の素材としても利用価値は高い。

日本では、竹独特の意匠性にフォーカスして木材の代わりにあえて竹を使ったりする。
竹垣や茶室の造作材などがポピュラーなところだが、最近では竹フローリング・竹ベニヤや竹の敷物など現代建築に取り入れやすい製品も登場している。

竹の生垣と竹の外壁(根津美術館:隈研吾)
竹フローリングと竹ベニヤ(根津美術館:隈研吾)

一方、東・南アジア地域では軽くて強くて加工しやすいなど、物的特性に根ざした使われ方をする。
仮設の足場材に利用したり、材木の代わりに竹そのもので家を作ったりと、基本的な建築資材として活用され続けてきた。
高温多湿な環境に適応した竹の家の空間。どこか竹林と相通じる心地良い空気が流れているような気がする。

水と土の芸術祭(王文志:台湾)

障壁としてのガラス

我々建築設計者の悪いクセで「外部に開いた」とか「庭と一体の」とか、ガラスを使って視界を開くことで、建築の内外をひとつながりの空間であると認識させようとする。
窓枠や中柱の収まりを工夫したり、床から天井まで目一杯の窓とするのも、あたかも窓やガラスがないように見せようとする仕掛けのひとつではある。

しかし透明で目には見えないけれど、そこには確実に障壁として「ガラス」が存在する。
視覚以外の情報は伝えてくれない。
開け放たれた座敷や縁側であれば、庭の空気の質感、土や草花の匂い、生物の気配や微かな鳴き声など、感性をくすぐる心の栄養も届けてくれる。
むしろガラスがないことの方が贅沢なのかもしれない。

この頃ひとりキャンプが流行ったり、平家の家が好まれるていると聞く。
ガラスで守られすぎた場所で生活している反動から、外と直接つながることの意味が見直されているのだろう。
色々な感覚が鈍ってしまった自分に気づき、五感を刺激してくる場所や空間がふと恋しくなってくる。

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床材のこと

人の皮膚が直接触れる部分の素材は自然由来のものが気持ち良い。
肌着はコットン素材が圧倒的に多いし、シルクなども悪くない。
肌触りの心地よさと調湿性は感覚的にも機能的にも理にかなっているのだろう。

建築で直接肌に触れるものといえば、便座や浴槽。
木の便座や檜の浴槽など肌触りの良いものも無くはないが、機能性には替えがたくプラスチックのものが当たり前になっている。
お尻がちょっとべたついたとしても我慢の範囲内とあきらめている。

問題は床材である。

個人的には、自宅では「スリッパ履かない派」なので、足裏の感触はとても気になる。
特に暖かい時期は素足ほど気持ちの良いものはない。

素地の木の床やたたみの上を素足で歩ける幸せ。
カーペットの優しさも捨てがたい。
他にもココヤシや籐・竹等を使った床材は五感に訴えてくるものがある。

ところが昨今の住宅では、メンテナンスフリーやクレームレス、偏った健康志向などから、自ら材料の選択肢の巾を狭くしてしまっている。
残念なことに素足が心地よいとは感じさせてくれない床材が多く使われるようになってしまった。
極薄表面材の摩耗を防ぐ強力樹脂コーティングがかかったフローリング。
木目を立体的にプリントしたビニル床シート。
見た目だけは「木」なのだが最も肝心な木の床の美点、調湿性や足触りの良さを忘れてしまっている。
もっとも「スリッパ履く派」にとっては見た目だけで十分満足なのも分からなくはない。
だって「木の床」ではなく「フローリング」を望んでしまっているわけだから、、、。

決まりきったデフォルトの設定をリセットしてみない限り本当の我が家のイメージは浮かび上がってこないような気がする。

サンドカーペット:南の島のレストランはおしゃれをしても素足が暗黙のドレスコード。

スカイライト

十日町にある「光の館」。
大地の芸術祭の作品のひとつである。

https://hikarinoyakata.com/space/

来訪者はたたみに寝っ転がり、屋根に開けた正方形の穴から切り取られた空を眺めるしつらえになっている。額縁効果で純粋化された空を眺めていると時間が止まって心がやすらいでくる感じ。実際に体験された方も多いのでは。

建築的には、トップライトのひとつなので特に難しい事はないが、空の効果を最大限引き出すために、空間寸法やフレームを消すディテールなど繊細な感覚が駆使されている。

ところで、この穴、自分の家にも欲しくありませんか?
窓からの風景とは違って、建て込んだ市街地でも空は誰にも邪魔されません。
リモートワークの息抜きにはもってこいかも。

中庭の空
車の空

精度とにげ

今、マンションの内装改修をやっている。ところが予想以上に元々の建物の精度が悪い。平らでなかったり真っすぐでなかったり、どうやって辻褄を合わせていくのか。大工共々毎日頭を悩ませている中で、「にげ」の重要さ加減が身に染みている。

「にげ」というと、一般的には「にげを打つ」等ネガティブな意味で使われることが圧倒的に多い。しかし、ものづくりの現場こと建築においては、この「にげ」をポジティブに操れるかどうかが仕事の質を大きく左右する。「余裕」とか「あそび」とは少し意味合いが違うこの「にげ」という感覚。熟練の技とはこの「にげ」を上手に使いこなせるかにかかっていると言っても過言ではない。どこにどれだけのにげをとるのか。あえてルーズにしておく部分があってこそ見せ場がピタッと納まるのだ。野丁場でたちあがってくる骨組みと、ミリ単位で納める仕上げとの精度のギャップをつなぐ。また、熱による膨張収縮や、木材の含水率変化による「あばれ」の吸収。地震時の躯体の変形を外壁や窓ガラスに直接伝えない納まりなど、これらの「にげ」は建築を大型化・高層化していくためにも必須の概念なのである。

「にげ」を駆使しないとできません!(竹中大工道具館:神戸)

ところが、CADをはじめとして日常的にデジタルな道具を使っていると無意識ににげの感覚が鈍っていくように思う。すべての情報が等しく重要そうに扱われるので、常に情報の優先順位を意識していないと、つまらないところに拘ってしまい、見落としてはいけない重要な部分が抜け落ちてしまう。いきなり自分の欲しい情報だけを注視せず、マクロ的に眺めてから部分に降りていく。いまどきの誹謗中傷や重箱の隅をつつくようなクレームも、にげの感覚の退化がひとつの原因のような気がする。

全ての物事が人の営みである以上、設計図通りに納まるはずがないのだから。

どうにか納まっているように見える。マンションのリノベーションでした。

眺めのいい部屋

映画「眺めのいい部屋」では、主人公の従姉(イギリス人である)が旅先のフィレンツェでアルノ川添いの部屋が用意されていないことに不満を抱く。上流階級に属する自分たちには当然そういう眺めのいい部屋が用意されるべきという論理がまかり通った時代のことである。

一方、現在では特に日本人旅行者に客室の窓からの眺めに殊更こだわりをもつ人が多いらしい。添乗員や現地の係員にとって、特に新婚旅行のカップルさんには細心の配慮が必要なのだそうな。お忍びで来ているVIP様ならいざしらず、昼間は観光やレジャーでほぼ部屋にいないので、そこまでこだわる合理的な理由はないように思う。しかし客室に案内された時、窓のカーテンを開けたほんの一瞬の感動であったとしても、それが旅の記憶としてはとても重要だという気持ちはわからないでもない。

オンザビーチのコテージからの眺め:樹木や砂浜付きなのは新婚さん御用達の水上コテージよりも上

そんな旅の宿の空間に非日常性の憧れを抱く気持ちは、とりもなおさず日常空間の貧しさの反動なのだろう。大きな窓があって明るいけれどレースのカーテンを開けられない閉ざされた「眺めのない部屋」に慣らされた現代の日本人。かといって圧倒的な眺望を売りにするタワーマンションが本当に「眺めのいい部屋」と呼べるのかも疑問である。木々の緑は感じられないし、下界を見下ろす感覚が先の従姉の階級意識と重なってかなり微妙な心持ちがする。

一昔前の日本家屋において一番眺めのいい部屋はいわゆる座敷であった。庭と融け合ったひと繋がりの空間であり、そもそも全ての建具を引き込めば窓そのものが無くなるように造られていた。そこまでの理想を現代の都市環境で40坪の住宅に求めるのは難しいけれど、設計のなかで窓の位置と大きさを周囲の状況をにらんで工夫する意味は大きい。庭はなくてもいい。窓越しに1本のシンボルツリーの四季を楽しめればいい。何らかのタクラミを持って窓を開ければ、日常の場を正しく「眺めのいい部屋」にできるはずなのである。

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