EXPO2025

最初からみんなが両手を挙げて賛同するような「考え」に未来はない。

8割の反対意見を乗り越えた先にこそ新しいまだ見ぬ世界があらわれる。

前例のないことをやろうとするときの心構えのようなものである。

当初から政治的な色合いが滲んでいて懐疑的な見方も多い今度の万博。

予算の上振れや会場建設の遅れなどで「やめちまえ」的な論調がメディアを賑わせている。

博覧会という言葉自体が時代錯誤的に響くので、今更万博?という短絡的な結論に走りがちなのか。

「モノ」や「コト」に行列をつくり、写真を撮って一丁あがり的なイベントなら確かにやめちまった方がいいのかもしれない。

しかし、この万博が全く新しい博覧会のカタチやイミを体感してほしいと目論んでいるのなら話は違ってくる。

コロナ禍のリモート生活を通じリアルの大切さを痛感した私たちは、あらゆる国や地域の「ヒト」が集うことの大切さを知っている。

同じ時間・同じ空間の中で地球の未来への課題を共有するまたとない機会となるかもしれない。

いろんな国や地域で対立や紛争が広がり続ける世界。

気候変動をはじめとして環境が破壊され続けている地球。

科学技術のモラルなき暴走に怯える人類。

私たちひとりひとりの振る舞いが自らの未来を決定づける大きな分岐点に立っていることをこの万博が示せるか、そこが重要なのだろう。

賛否の判断は今万博の開催理念をちゃんと読んでみてから判断しても遅くはない。

https://www.expo2025.or.jp/overview/philosophy/

施設の建築自体は神宮外苑再開発のような景観問題を含んでいないのだから。

抗う

大阪のどまんなか北浜で抗っているレトロな建築。

経済原則に則り法律の許す範囲で建て替えられた両側のビルがこの街区のスタンダードではある。

しかしこの街区の特異性を考えると抗っている小さな建築の方に軍配を上げたくなる。

北側に土佐堀川と中之島公園、南には立派な街路と高層オフィス建築郡。

それらに挟まれた幅20Mにも満たない薄っぺらい街区の宿命か、中途半端な高さのビルが南北間を目隠しする様、屏風のごとく連なってしまっている。

もしこのエリアの青写真が、北浜のビル街の一部としてではなく、中之島側と一体の都市公園的な街区として描かれていたらと思うと残念でしかたがない。

建築・都市計画法上の網掛けのほんの少しの違いが、良い方にも悪い方にも景観を一変させうる。

つくづく境界線付近というのは慎重な取り扱いが必要だということか。

時節柄NATOとロシアの狭間で抗い続けるウクライナのイメージがダブる。

建築の時間

コルテン鋼の建築

錆びた鉄には特別な味がある。

目に見えない「時間」を可視化しているからか。

誕生からの歴史と朽ち果てるまでの未来。

あたかも人が生まれる前から存在し、

人の命が尽きてからもずっとそこにあり続けるような感覚。

錆鉄の広場

風化したコンクリートや灰白化した木材にも同じチカラを感じる。

床・壁・柱・梁、それぞれに刻み込まれた記憶で建築は時間を胚胎する。

創建当時の時代背景や人々の暮らし。

建造に関わった人達の思いや困難をのりこえるための熱。

心静かに空間の中に身をおこうとしても、

そんな事を想像しだすと、やおらドキドキが止まらなくなる。

障壁としてのガラス

我々建築設計者の悪いクセで「外部に開いた」とか「庭と一体の」とか、ガラスを使って視界を開くことで、建築の内外をひとつながりの空間であると認識させようとする。
窓枠や中柱の収まりを工夫したり、床から天井まで目一杯の窓とするのも、あたかも窓やガラスがないように見せようとする仕掛けのひとつではある。

しかし透明で目には見えないけれど、そこには確実に障壁として「ガラス」が存在する。
視覚以外の情報は伝えてくれない。
開け放たれた座敷や縁側であれば、庭の空気の質感、土や草花の匂い、生物の気配や微かな鳴き声など、感性をくすぐる心の栄養も届けてくれる。
むしろガラスがないことの方が贅沢なのかもしれない。

この頃ひとりキャンプが流行ったり、平家の家が好まれるていると聞く。
ガラスで守られすぎた場所で生活している反動から、外と直接つながることの意味が見直されているのだろう。
色々な感覚が鈍ってしまった自分に気づき、五感を刺激してくる場所や空間がふと恋しくなってくる。

Exif_JPEG_PICTURE

シャッターチャンス

通勤で新潟~加茂を車で往復している。
田んぼの真中をつっきるバイパス道は見通しもよく突然ハッとするような美しい風景に出くわすことがある。

車を停めてしばし眺めていたり写真におさめたりしたいと思うのだが、即座にハザードランプをつける思い切りがない。
もう少し先の車を停めやすい場所でとかと考えているうちに段々と見る角度が変化して凡庸な風景に変わってしまう。
本当はUターンしてでもその場所にもどるべきなのだが、次の機会があるだろうと勝手に自分を納得させてしまい、おおいに後悔することになる。
特に夕焼けや朝霧など、刻々と変化する自然現象は一瞬でチャンスを逃してしまう。
次の日の同じ時刻に同じ場所を訪れたとしても、なかなかその感動的な風景は再現されない。
まさに一期一会なのだ。

数字ばかりが独り歩きする世知辛い世の中だからこそ、ちょっとみちくさできるくらいに時間と心にゆとりを持ちたいと思う。

目の前を何気なく通り過ぎてゆくチャンス。それらを感度よくつかまえられるためにも。

車じゃなければチャンスを逃さない。

加茂紙で襖を張ってみた

襖紙といえば手漉の本鳥の子が横綱。
機械漉にはない隙のない上品な表情や独特のツヤが最高級の証である。
そう簡単に使える機会は巡ってこないが、見本帳などを見ていてもやはりその風格のちがいが感じられる。

今回使った紙は手漉の加茂紙。

ただし「加茂紙漉場」が漉いた、いわゆる試作品である。

加茂紙はかつて七谷和紙の名で地区の産品として生産されており、最盛期にはこの辺りだけで400軒ほどの紙漉家があったと聞く。
その途絶えてしまった紙漉文化の復興を担って立ち上げられた加茂紙漉場。

襖紙としては荒い繊維が残っていたり厚みが均一でなかったりもするが、それがかえって和紙っぽくってイイ感じ。
そういうカジュアルな和を好む人も多くいるので、もう一段品質が安定してくればそれなりの価格で販売できるようになると思う。

なんといっても手漉なのだから。

床材のこと

人の皮膚が直接触れる部分の素材は自然由来のものが気持ち良い。
肌着はコットン素材が圧倒的に多いし、シルクなども悪くない。
肌触りの心地よさと調湿性は感覚的にも機能的にも理にかなっているのだろう。

建築で直接肌に触れるものといえば、便座や浴槽。
木の便座や檜の浴槽など肌触りの良いものも無くはないが、機能性には替えがたくプラスチックのものが当たり前になっている。
お尻がちょっとべたついたとしても我慢の範囲内とあきらめている。

問題は床材である。

個人的には、自宅では「スリッパ履かない派」なので、足裏の感触はとても気になる。
特に暖かい時期は素足ほど気持ちの良いものはない。

素地の木の床やたたみの上を素足で歩ける幸せ。
カーペットの優しさも捨てがたい。
他にもココヤシや籐・竹等を使った床材は五感に訴えてくるものがある。

ところが昨今の住宅では、メンテナンスフリーやクレームレス、偏った健康志向などから、自ら材料の選択肢の巾を狭くしてしまっている。
残念なことに素足が心地よいとは感じさせてくれない床材が多く使われるようになってしまった。
極薄表面材の摩耗を防ぐ強力樹脂コーティングがかかったフローリング。
木目を立体的にプリントしたビニル床シート。
見た目だけは「木」なのだが最も肝心な木の床の美点、調湿性や足触りの良さを忘れてしまっている。
もっとも「スリッパ履く派」にとっては見た目だけで十分満足なのも分からなくはない。
だって「木の床」ではなく「フローリング」を望んでしまっているわけだから、、、。

決まりきったデフォルトの設定をリセットしてみない限り本当の我が家のイメージは浮かび上がってこないような気がする。

サンドカーペット:南の島のレストランはおしゃれをしても素足。

バタフライスツール

税金滞納で差し押さえられた動産の公売会でバタフライスツールを落札した。
金8000円也。

家具屋で長期展示されていたものという説明だったので正規の品物だろうと早合点して参加。
しかし、現物を見た時、これって正規のオリジナル品???という感じはしたものの、その時の勢いで入札してしまった。
後悔しているわけではないが、多分コピー品だろう。

仕事上、家具の選定や手配をすることも多いのだが、ネット通販の普及につれいわゆるコピー品が大量に安価で出回っているのも事実だ。
よく見ないと区別できない椅子1脚、10万円か2万円か、個人の価値観と言ってしまえば身も蓋もない。

コピー商品の是非についてはのちの機会に譲るとして、

ただ、大量生産大量消費の時代が行き詰まり、ものを持たない文化が浸透した今、次の時代のものづくり社会を一体どうやって構築していけば良いのだろうと考えてしまう。
グローバル化の中で捨て去ってきた日本独自の文化や技術、日本人独特の感性やまじめさ、そんなところを思い出すことから再出発するのもひとつの方法かもしれない。
かつての「made in Japan」のような日本でしか生み出せない価値。

ひらひらと蝶々の如くそんなところに思いが飛んでいってしまう。

太陽の塔と万博

万博終了後荒れ果てていた太陽の塔の内部が修復され一般公開されていると聞き、見学に行きたいとずっと思っていた。
しかしこのご時世、なかなかチャンスがない。
そんな折、ちょうど岡本太郎展が新潟で開催されたので、覗きに行ってみた。

太陽の塔自体は縮小模型の展示なので実物の迫力は伝わらないが、そこへ至る岡本芸術のルーツに触れる展示が興味深い。
「太陽の塔。あれはいったい何だったのか?」との疑問にヒントをくれる。

後にグラスの底に顔をつけて「芸術は爆発だ」と叫ぶ以前の「芸術は呪術だ」と唱えていた時代。
東北のイタコや沖縄のユタ、縄文土器や土偶などに強く影響を受け、太陽の塔を含むテーマ館をつくりあげた。
神秘的で原始的な古代人の文化や、生命の起源から人に至る進化の過程の展示には、ヒトの尊厳や自然への畏敬が表現され、さらに戦争や科学技術暴走への危惧や警告のメッセージも読み取れる。
そして太陽の塔は、それら人類の過去・現在・未来を見通し、人種や宗教の違いを超越した全ての命を庇護する存在。
「胎内に生命の樹を宿す万物の母」というふうに思えてきた。

1970年、万博当時小学生だった私は、雑誌やテレビで紹介される会場の建築物に驚喜していた。
太陽の塔をはじめとした見たことのない未来都市のようなパビリオン達。これが〇〇館で隣が△△館などと誌上見学会で大いに楽しんだ。
そこには夢があったのだ。

翻って、2025年の万博は夢を見させてくれるだろうか?
TDLやUSJがある今、万博は何を語れるのだろう。
また50年後も評価され続けるような確かな痕跡を残せるのだろうか。

会場デザインプロデューサーを建築家の藤本壮介氏が担当しているということで少なからず期待はしたいのだが、、、

スカイライト

十日町にある「光の館」。
大地の芸術祭の作品のひとつである。

https://hikarinoyakata.com/space/

来訪者はたたみに寝っ転がり、屋根に開けた正方形の穴から切り取られた空を眺めるしつらえになっている。額縁効果で純粋化された空を眺めていると時間が止まって心がやすらいでくる感じ。実際に体験された方も多いのでは。

建築的には、トップライトのひとつなので特に難しい事はないが、空の効果を最大限引き出すために、空間寸法やフレームを消すディテールなど繊細な感覚が駆使されている。

ところで、この穴、自分の家にも欲しくありませんか?
窓からの風景とは違って、建て込んだ市街地でも空は誰にも邪魔されません。
リモートワークの息抜きにはもってこいかも。

中庭の空
車の空
© 2024 OYG-archi, All rights reserved.