佐渡金山、、、

佐渡金山が世界遺産登録されたとか、、、。

石見銀山や軍艦島などもそうだけれど、産業遺産と呼ばれるカテゴリーのものは、単純に「美しさ」とか「楽しさ」とかのドキドキ感が欠落しているように思う。
観光資源として考えるならば、もう一度訪れたいと思わせる直感的な美しさが必要だし、あそこはいいよと自信を持って人に勧めたくなる感動的なシーンを見せてほしいのだ。

関連する北沢選鉱場の遺構を美術館にコンバージョンするとか、相川の街中を小判作りの現場を再現したテーマパークにするとか、簡単ではないけれどそれくらいのエネルギーを投入して必見ポイントとしての価値を高めていってほしい。
もっとも、金山関連だけではリピーターの獲得は難しい。
佐渡全体のあらゆる素材を総動員して、一泊じゃとても回りきれない感を出していかないと。宿根木が吉永小百合のCMで一躍脚光を浴びたように、磨けば光る石がたくさんあるのだから。
要は磨き方次第。

例えば、能や太鼓や人形浄瑠璃などの伝統芸能。
開催日時が限られていて見たいと思っても日程が合わないことが多い。
海外リゾートがやっているようにホテルの庭とか、常設の観光劇場とかで連日日替わりで楽しめると良いのにと思う。

それから、島内の見どころが散在している佐渡では移動がレンタカー頼みになりがち。
休日くらいは車を運転したくないと思う私は、ホテルなどのオプショナルツアーのメニューをもっと充実させてほしい。
特に酒蔵見学で試飲を楽しんだり、昼食に牡蠣小屋で一杯とか。
ゆったりとした大人の休日を満喫できる選択肢が豊富にあること、それが観光地として長く愛され続けるための生命線である。

犬島製錬所美術館。銅の製錬所の遺構を美術館としてリノベーション。瀬戸内海の島々を舞台としたアートプロジェクトの目玉施設のひとつである。石をどう磨くか、そこが大事なのだ。

落葉や雪

人の生活圏では厄介者扱いの落葉や雪。
無理にさわらずそのままにしておければこんなに美しい景色はないのだけれど。
自然と土や水に還り、次の季節の滋養となる。

いつからだろう、こんなに自然との付き合い方がへたくそになってしまったのは?

便利で快適な暮らしを無自覚に求めつづけ、自然の摂理を力技でねじ伏せようとする人類の傲慢さ。
人と地球が喧嘩していて、まわりの生物がとばっちりを受けているような気さえする。

でも、厄介者にみえるのは季節限定。
自然からの恒例の贈り物なのだから。
ゆたかな心でもっと上手に受け入れていきたい。

地球を本気で怒らせないように。

風車のある風景

風車のある美しい景色、ヨーロッパの風景写真などで誰しも目にしたことがあると思う。
風車自体の美しさがちょうど良いアクセントとなり、自然景観にぴたりと調和している。

風力発電先進県秋田の海岸沿道路の風車

ところで、風力発電の風車も案外と風景を傷めないと思いませんか。

羽とテーパー付のポールはスリムでシンプル、それ自体機能的な美しさを備えている。
設置場所や密度に配慮して計画すれば自然と共存した新しい景観を創り出せるように思う。
太陽光パネルのように景観形成とは全く相容れないシロモノではないのだから。

しかし、洋上陸上を問わず風力発電事業はいずれにしてもビッグプロジェクトである。
効率という数字が大きく幅を利かせる。
容積率を目一杯使って採算性を評価するマンション開発などと同じ指標だ。
少しでも風の効率が良い場所に、最低限の間隔で密集させて立てようとする。
結果、自然・生物・人との軋轢を生む。

そこそこの風でもOK、5.6基まとまればOK、などもっともっと緩い条件でGOサインが出るような事業環境になり、田んぼや畑のど真ん中、道路・鉄道沿など全国津々浦々にちょっとずつ整備されるようになれば電気の地産地消という意味でも理にかなっているのだが、、、。

過ぎたるは及ばざるが如し、腹八分目、自然エネルギーのことなのだからそんなユトリの感覚を大切にした方がしっくりくるように思う。

竹の空間

京都の竹林が外国人観光客に人気だとか。

実際に訪れたことはないけれど、写真や映像を通してでも心地良さそうな空気感が見てとれる。
それらしい散策路が用意されているだけで、余計な小細工はなし。
竹林そのものの美しさにフォーカスした点が◯。

竹は欧州や北米あたりには生育していないこともあって、その竹を素材とする日本的な「モノ」。茶筅や茶杓・茶室の一輪挿・庭のししおどし・手水場の柄杓・筍・お造りの器・七味入れ、、、尺八・釣竿・物干竿・竹馬などなど、
それら名脇役との出会いも旅の思い出に彩りを添える。

また、建築の素材としても利用価値は高い。

日本では、竹独特の意匠性にフォーカスして木材の代わりにあえて竹を使ったりする。
竹垣や茶室の造作材などがポピュラーなところだが、最近では竹フローリング・竹ベニヤや竹の敷物など現代建築に取り入れやすい製品も登場している。

竹の生垣と竹の外壁(根津美術館:隈研吾)
竹フローリングと竹ベニヤ(根津美術館:隈研吾)

一方、東・南アジア地域では軽くて強くて加工しやすいなど、物的特性に根ざした使われ方をする。
仮設の足場材に利用したり、材木の代わりに竹そのもので家を作ったりと、基本的な建築資材として活用され続けてきた。
高温多湿な環境に適応した竹の家の空間。どこか竹林と相通じる心地良い空気が流れているような気がする。

水と土の芸術祭(王文志:台湾)

近代建築遺産 in Kamo

日本の伝統建築や明治大正時代の洋風・擬洋風建築などは、建築関係以外の人にとっても、肌感覚としてその美しさや価値を自然に理解できる。
そのため歴史的遺産として保存すべきという意見も通りやすい。
実際、文化財への登録やヘリテージマネージャーという専門家らの活動によっても守られてきている。

一方、昭和以降の近代建築、主に鉄骨やコンクリートでできたいわゆるモダン・ムーブメントの時代の建築は、来歴や価値を顧みられることなく老朽化や経済効率を理由にいとも簡単に姿を消してしまうものも少なくない。
伝統建築のような解りやすさがないものも多いので、DOCOMOMOという組織がこの時代の建築の再評価と保存啓発に取り組んでいる。
現在国内では、280棟あまりがその価値を見出されて登録済であり、毎年その数を増やしている。

新潟県内での登録は、

新潟市体育館 [宮川英二+加藤渉(構造)] 1961年、

糸魚川善導寺 [渡邉洋治] 1961年、

長岡市立互尊文庫 [吉武泰水他(日本図書館協会施設委員会)] 1967年

の3件である。

ところで、加茂市に現存するこの時代の建築。
私が勝手に登録推薦するとしたら、この2つかな。

加茂市民体育館 [棚橋諒(担当:川崎清)] 1964年

天神林浄水場  [           ] 1973年

できるなら、メンテナンスや改修を図りながらずっと使い続けられると良いのだが、、、。

加茂市民体育館:新潟国体のレガシー
天神林浄水場

PS. 上記 天神林浄水場の設計者をご存知の方、ご教授を!

角地の建築

あまり見かけなくなった「角地っぽい」建物。

街路(歩道)の隅切り部分に中心軸としての入口を設け、90度に広がるシンメトリカルなデザイン。
この界隈ではいくつか同様の建築が現在も大切に使われている。

しかし、あえて象徴的なシンメトリーを避けようとした現代建築の流れもあってか、戦後はそれらしい角地建築はあまり造られなくなってしまった。

とはいえ、商業地における建築のデザインは、ほとんどの区画が正面性のみに依存するのに対して、自ずと立体的に広がる角地は特別に貴重な場所だったはずだ。

その特別感をあらわす場所として、例えば銀座4丁目の交差点。
ここにはそれぞれ個性の異なる4つの角地建築がお互いをリスペクトするように建っている。

角地建築の基本型、三越。

滑らかな円弧を描くセイコーのビル。

円い筒でなじませた三愛ビル。

現代建築での解答、GINZA PLACE。

場所が場所なだけにみなハンパない感じの建築達である。

こんな場所での設計機会はなかなか経験できないけれど、
学生の課題としては再評価さえれてもいいのかもしれない。

それぞれが角地建築を1案ずつ持ち寄り、講評会でいろいろな組み合わせを検討しながら一つの交差点空間をつくる。4つの組み合わせに意味があるので個人攻撃になりにくく、なんだか自由に楽しく意見を出し合えるような気がする。

スマホのカメラ

えげつないほど優秀なスマホのカメラ。

竣工した建物の写真撮影時には、デジカメの他に「三脚・脚立・広角レンズ」が必需品だったし、旅先などで良い空間を記録しようと思うと、手ぶれしないよう壁に体をくっつけて息を止めたままゆっくりシャッターを切るなんてめんどくさい工夫が必要だった。

でも今はそんなことはスマホ君におまかせで十分立派な写真が撮れる。

いったい何がそれを可能にしているのか、詳しいことはよくわからないけれど、とにかくデータ処理の技術が優れているのだろうなとは想像がつく。

しかし、気が利きすぎているというか、あなたが撮りたい写真ってこういうやつでしょってスマホに勝手に判断されているようで、どうも気持ちの悪い部分もある。

晴天の昼間に「室内」を撮影する。
すると、窓の外空の青や植栽の緑まで鮮明に写っている。
何もしないで素直に撮れば、露出オーバーで白くとんでしまうはずなのに、どうもそこだけ露出が部分的に調整されているようだ。
そのクッキリさ加減がいささかわざとらしく、窓枠の中だけ別の画像を貼り付けた(実際そうゆう処理がされているのだろう、、、)ようなのが気になる。
逆に外の風景が邪魔になるような時はかえってぼやけてくれた方がいい場合もある。

スマホ君は良かれと思ってやっているのだろうけれど、その辺のさじ加減は撮影者が自ら意図を反映できるような、多様な価値観を受け入れられるソフトウェアの出現に期待したい。

EXPO2025

最初からみんなが両手を挙げて賛同するような「考え」に未来はない。

8割の反対意見を乗り越えた先にこそ新しいまだ見ぬ世界があらわれる。

前例のないことをやろうとするときの心構えのようなものである。

当初から政治的な色合いが滲んでいて懐疑的な見方も多い今度の万博。

予算の上振れや会場建設の遅れなどで「やめちまえ」的な論調がメディアを賑わせている。

博覧会という言葉自体が時代錯誤的に響くので、今更万博?という短絡的な結論に走りがちなのか。

「モノ」や「コト」に行列をつくり、写真を撮って一丁あがり的なイベントなら確かにやめちまった方がいいのかもしれない。

しかし、この万博が全く新しい博覧会のカタチやイミを体感してほしいと目論んでいるのなら話は違ってくる。

コロナ禍のリモート生活を通じリアルの大切さを痛感した私たちは、あらゆる国や地域の「ヒト」が集うことの大切さを知っている。

同じ時間・同じ空間の中で地球の未来への課題を共有するまたとない機会となるかもしれない。

いろんな国や地域で対立や紛争が広がり続ける世界。

気候変動をはじめとして環境が破壊され続けている地球。

科学技術のモラルなき暴走に怯える人類。

私たちひとりひとりの振る舞いが自らの未来を決定づける大きな分岐点に立っていることをこの万博が示せるか、そこが重要なのだろう。

賛否の判断は今万博の開催理念をちゃんと読んでみてから判断しても遅くはない。

https://www.expo2025.or.jp/overview/philosophy/

施設の建築自体は神宮外苑再開発のような景観問題を含んでいないのだから。

抗う

大阪のどまんなか北浜で抗っているレトロな建築。

経済原則に則り法律の許す範囲で建て替えられた両側のビルがこの街区のスタンダードではある。

しかしこの街区の特異性を考えると抗っている小さな建築の方に軍配を上げたくなる。

北側に土佐堀川と中之島公園、南には立派な街路と高層オフィス建築郡。

それらに挟まれた幅20Mにも満たない薄っぺらい街区の宿命か、中途半端な高さのビルが南北間を目隠しする様、屏風のごとく連なってしまっている。

もしこのエリアの青写真が、北浜のビル街の一部としてではなく、中之島側と一体の都市公園的な街区として描かれていたらと思うと残念でしかたがない。

建築・都市計画法上の網掛けのほんの少しの違いが、良い方にも悪い方にも景観を一変させうる。

つくづく境界線付近というのは慎重な取り扱いが必要だということか。

時節柄NATOとロシアの狭間で抗い続けるウクライナのイメージがダブる。

建築の時間

コルテン鋼の建築

錆びた鉄には特別な味がある。

目に見えない「時間」を可視化しているからか。

誕生からの歴史と朽ち果てるまでの未来。

あたかも人が生まれる前から存在し、

人の命が尽きてからもずっとそこにあり続けるような感覚。

錆鉄の広場

風化したコンクリートや灰白化した木材にも同じチカラを感じる。

床・壁・柱・梁、それぞれに刻み込まれた記憶で建築は時間を胚胎する。

創建当時の時代背景や人々の暮らし。

建造に関わった人達の思いや困難をのりこえるための熱。

心静かに空間の中に身をおこうとしても、

そんな事を想像しだすと、やおらドキドキが止まらなくなる。

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