風車のある風景

風車のある美しい景色、ヨーロッパの風景写真などで誰しも目にしたことがあると思う。
風車自体の美しさがちょうど良いアクセントとなり、自然景観にぴたりと調和している。

風力発電先進県秋田の海岸沿道路の風車

ところで、風力発電の風車も案外と風景を傷めないと思いませんか。

羽とテーパー付のポールはスリムでシンプル、それ自体機能的な美しさを備えている。
設置場所や密度に配慮して計画すれば自然と共存した新しい景観を創り出せるように思う。
太陽光パネルのように景観形成とは全く相容れないシロモノではないのだから。

しかし、洋上陸上を問わず風力発電事業はいずれにしてもビッグプロジェクトである。
効率という数字が大きく幅を利かせる。
容積率を目一杯使って採算性を評価するマンション開発などと同じ指標だ。
少しでも風の効率が良い場所に、最低限の間隔で密集させて立てようとする。
結果、自然・生物・人との軋轢を生む。

そこそこの風でもOK、5.6基まとまればOK、などもっともっと緩い条件でGOサインが出るような事業環境になり、田んぼや畑のど真ん中、道路・鉄道沿など全国津々浦々にちょっとずつ整備されるようになれば電気の地産地消という意味でも理にかなっているのだが、、、。

過ぎたるは及ばざるが如し、腹八分目、自然エネルギーのことなのだからそんなユトリの感覚を大切にした方がしっくりくるように思う。

竹の空間

京都の竹林が外国人観光客に人気だとか。

実際に訪れたことはないけれど、写真や映像を通してでも心地良さそうな空気感が見てとれる。
それらしい散策路が用意されているだけで、余計な小細工はなし。
竹林そのものの美しさにフォーカスした点が◯。

竹は欧州や北米あたりには生育していないこともあって、その竹を素材とする日本的な「モノ」。茶筅や茶杓・茶室の一輪挿・庭のししおどし・手水場の柄杓・筍・お造りの器・七味入れ、、、尺八・釣竿・物干竿・竹馬などなど、
それら名脇役との出会いも旅の思い出に彩りを添える。

また、建築の素材としても利用価値は高い。

日本では、竹独特の意匠性にフォーカスして木材の代わりにあえて竹を使ったりする。
竹垣や茶室の造作材などがポピュラーなところだが、最近では竹フローリング・竹ベニヤや竹の敷物など現代建築に取り入れやすい製品も登場している。

竹の生垣と竹の外壁(根津美術館:隈研吾)
竹フローリングと竹ベニヤ(根津美術館:隈研吾)

一方、東・南アジア地域では軽くて強くて加工しやすいなど、物的特性に根ざした使われ方をする。
仮設の足場材に利用したり、材木の代わりに竹そのもので家を作ったりと、基本的な建築資材として活用され続けてきた。
高温多湿な環境に適応した竹の家の空間。どこか竹林と相通じる心地良い空気が流れているような気がする。

水と土の芸術祭(王文志:台湾)

建築の時間

コルテン鋼の建築

錆びた鉄には特別な味がある。

目に見えない「時間」を可視化しているからか。

誕生からの歴史と朽ち果てるまでの未来。

あたかも人が生まれる前から存在し、

人の命が尽きてからもずっとそこにあり続けるような感覚。

錆鉄の広場

風化したコンクリートや灰白化した木材にも同じチカラを感じる。

床・壁・柱・梁、それぞれに刻み込まれた記憶で建築は時間を胚胎する。

創建当時の時代背景や人々の暮らし。

建造に関わった人達の思いや困難をのりこえるための熱。

心静かに空間の中に身をおこうとしても、

そんな事を想像しだすと、やおらドキドキが止まらなくなる。

加茂紙で襖を張ってみた

襖紙といえば手漉の本鳥の子が横綱。
機械漉にはない隙のない上品な表情や独特のツヤが最高級の証である。
そう簡単に使える機会は巡ってこないが、見本帳などを見ていてもやはりその風格のちがいが感じられる。

今回使った紙は手漉の加茂紙。

ただし「加茂紙漉場」が漉いた、いわゆる試作品である。

加茂紙はかつて七谷和紙の名で地区の産品として生産されており、最盛期にはこの辺りだけで400軒ほどの紙漉家があったと聞く。
その途絶えてしまった紙漉文化の復興を担って立ち上げられた加茂紙漉場。

襖紙としては荒い繊維が残っていたり厚みが均一でなかったりもするが、それがかえって和紙っぽくってイイ感じ。
そういうカジュアルな和を好む人も多くいるので、もう一段品質が安定してくればそれなりの価格で販売できるようになると思う。

なんといっても手漉なのだから。

バタフライスツール

税金滞納で差し押さえられた動産の公売会でバタフライスツールを落札した。
金8000円也。

家具屋で長期展示されていたものという説明だったので正規の品物だろうと早合点して参加。
しかし、現物を見た時、これって正規のオリジナル品???という感じはしたものの、その時の勢いで入札してしまった。
後悔しているわけではないが、多分コピー品だろう。

仕事上、家具の選定や手配をすることも多いのだが、ネット通販の普及につれいわゆるコピー品が大量に安価で出回っているのも事実だ。
よく見ないと区別できない椅子1脚、10万円か2万円か、個人の価値観と言ってしまえば身も蓋もない。

コピー商品の是非についてはのちの機会に譲るとして、

ただ、大量生産大量消費の時代が行き詰まり、ものを持たない文化が浸透した今、次の時代のものづくり社会を一体どうやって構築していけば良いのだろうと考えてしまう。
グローバル化の中で捨て去ってきた日本独自の文化や技術、日本人独特の感性やまじめさ、そんなところを思い出すことから再出発するのもひとつの方法かもしれない。
かつての「made in Japan」のような日本でしか生み出せない価値。

ひらひらと蝶々の如くそんなところに思いが飛んでいってしまう。

太陽の塔と万博

万博終了後荒れ果てていた太陽の塔の内部が修復され一般公開されていると聞き、見学に行きたいとずっと思っていた。
しかしこのご時世、なかなかチャンスがない。
そんな折、ちょうど岡本太郎展が新潟で開催されたので、覗きに行ってみた。

太陽の塔自体は縮小模型の展示なので実物の迫力は伝わらないが、そこへ至る岡本芸術のルーツに触れる展示が興味深い。
「太陽の塔。あれはいったい何だったのか?」との疑問にヒントをくれる。

後にグラスの底に顔をつけて「芸術は爆発だ」と叫ぶ以前の「芸術は呪術だ」と唱えていた時代。
東北のイタコや沖縄のユタ、縄文土器や土偶などに強く影響を受け、太陽の塔を含むテーマ館をつくりあげた。
神秘的で原始的な古代人の文化や、生命の起源から人に至る進化の過程の展示には、ヒトの尊厳や自然への畏敬が表現され、さらに戦争や科学技術暴走への危惧や警告のメッセージも読み取れる。
そして太陽の塔は、それら人類の過去・現在・未来を見通し、人種や宗教の違いを超越した全ての命を庇護する存在。
「胎内に生命の樹を宿す万物の母」というふうに思えてきた。

1970年、万博当時小学生だった私は、雑誌やテレビで紹介される会場の建築物に驚喜していた。
太陽の塔をはじめとした見たことのない未来都市のようなパビリオン達。これが〇〇館で隣が△△館などと誌上見学会で大いに楽しんだ。
そこには夢があったのだ。

翻って、2025年の万博は夢を見させてくれるだろうか?
TDLやUSJがある今、万博は何を語れるのだろう。
また50年後も評価され続けるような確かな痕跡を残せるのだろうか。

会場デザインプロデューサーを建築家の藤本壮介氏が担当しているということで少なからず期待はしたいのだが、、、

スカイライト

十日町にある「光の館」。
大地の芸術祭の作品のひとつである。

https://hikarinoyakata.com/space/

来訪者はたたみに寝っ転がり、屋根に開けた正方形の穴から切り取られた空を眺めるしつらえになっている。額縁効果で純粋化された空を眺めていると時間が止まって心がやすらいでくる感じ。実際に体験された方も多いのでは。

建築的には、トップライトのひとつなので特に難しい事はないが、空の効果を最大限引き出すために、空間寸法やフレームを消すディテールなど繊細な感覚が駆使されている。

ところで、この穴、自分の家にも欲しくありませんか?
窓からの風景とは違って、建て込んだ市街地でも空は誰にも邪魔されません。
リモートワークの息抜きにはもってこいかも。

中庭の空
車の空

精度とにげ

今、マンションの内装改修をやっている。ところが予想以上に元々の建物の精度が悪い。平らでなかったり真っすぐでなかったり、どうやって辻褄を合わせていくのか。大工共々毎日頭を悩ませている中で、「にげ」の重要さ加減が身に染みている。

「にげ」というと、一般的には「にげを打つ」等ネガティブな意味で使われることが圧倒的に多い。しかし、ものづくりの現場こと建築においては、この「にげ」をポジティブに操れるかどうかが仕事の質を大きく左右する。「余裕」とか「あそび」とは少し意味合いが違うこの「にげ」という感覚。熟練の技とはこの「にげ」を上手に使いこなせるかにかかっていると言っても過言ではない。どこにどれだけのにげをとるのか。あえてルーズにしておく部分があってこそ見せ場がピタッと納まるのだ。野丁場でたちあがってくる骨組みと、ミリ単位で納める仕上げとの精度のギャップをつなぐ。また、熱による膨張収縮や、木材の含水率変化による「あばれ」の吸収。地震時の躯体の変形を外壁や窓ガラスに直接伝えない納まりなど、これらの「にげ」は建築を大型化・高層化していくためにも必須の概念なのである。

「にげ」を駆使しないとできません!(竹中大工道具館:神戸)

ところが、CADをはじめとして日常的にデジタルな道具を使っていると無意識ににげの感覚が鈍っていくように思う。すべての情報が等しく重要そうに扱われるので、常に情報の優先順位を意識していないと、つまらないところに拘ってしまい、見落としてはいけない重要な部分が抜け落ちてしまう。いきなり自分の欲しい情報だけを注視せず、マクロ的に眺めてから部分に降りていく。いまどきの誹謗中傷や重箱の隅をつつくようなクレームも、にげの感覚の退化がひとつの原因のような気がする。

全ての物事が人の営みである以上、設計図通りに納まるはずがないのだから。

どうにか納まっているように見える。マンションのリノベーションでした。

通路をだいじに

水と土の芸術祭展示物の内部

路地や通路のように人が歩いて移動する空間がおもしろい。
そこそこ狭くてちょっと曲がっっていたりすればなお良し。
通路本来の機能であるそのさきの目的地へ到達する期待感が生み出しているのではない。
単純に細長い空間そのものが楽しいのだ。
適度な包まれ感の中、歩く過程でだんだんと又リズミカルに景色が変わる。
まち的な「みち」のスケールだとわかりやすい。例えば飲み屋街の路地。
日中はわい雑な街並みでも夜の帳が程よいフィルターをかける。
灯のともった看板や店内から滲み出す賑わいが、細長い空間としてリズムの中に心地よさを演出している。

伏見稲荷の千本鳥居

かたや建築の世界では見捨てられがちな「廊下」や「通路」。
それゆえ、こうしてほしいああしてほしいと細かな注文が発せられない部分でもある。
設計サイドの考え方次第でかえって目玉の空間となりうるのだ。
機能一辺倒で造ってはもったいない。
○と×の典型例は関空と成田(第2)の国際線搭乗口への導線空間。
また、駅のプラットフォームや連絡通路等も規模が規模なだけにその功罪は大きい。
永く存続する公共空間なればこそ、ずっと利用者を楽しませてくれる空間であってほしいものである。

住宅のアプローチ土間空間

ずっと規模は小さくなるけれど、学校やホテル、庁舎やオフィス等の「廊下」も然り。
むしろ人との関係が濃くなるスケールであり、空間の良し悪しが肌で感じられる。
夢々疎かにはできない空間だと思う。

乗り物のデザインに思う

観光バスも例外ではなく、「業務用」の乗り物のデザインが面白い。

鉄道車両や飛行機・船舶などはいうに及ばず、農業用のトラクター、ユンボなどの建設機械まで、そういう目で見ているとなかなか優れたデザインのものが多いと感じる。

「業務用」の所以は使う側もプロフェッショナルである事。
高級路線の差別化された意匠であったり、あるいは機能美に徹した潔さまで、評価基準が明確で単なる流行や情緒的な判断からは一線を画す。
それはデザインする側の意欲をも刺激して、妥協のないものを生み出す原動力となっている。
地面に固着しているか移動しているかの違いはあるが、建築家を起用した乗り物も登場している。
街や自然との関係を意識した形態と居心地の良い空間をデザインするというミッションは確実に建築家の守備範囲である。

桜の老大木とバックシャンな sakura bus

一方、乗用車(特に日本の)のデザインには物足りなさを感じて久しい。
デザインの比重が大きな商品であるにもかかわらず(そういう商品だからなのか)、販売台数という命題がデザイン自体に時流への迎合を強いる。
「モノ」へのこだわりが薄れる世相においては、突き抜けた発想や、とんがりすぎた提案は「売れない」の一言で却下されてしまうのだろう。

家づくりの世界も同様。
デザイナー住宅とか建築家の家とかと銘打った俗に言う小洒落た商品が売れているようである。
乗用車のデザインよろしく、売れスジにすり寄っている感じがしてなんとなく気持ちが悪い。

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