「サイレージ」の風景

越後平野の田園風景のど真ん中、白い円筒形の巨大マシュマロを発見。
これ、サイレージという牛の飼料です。刈り取った草をベーラーという機械でベール(巨大マシュマロの形)に成形し、それをラップでグルグル巻きにして発酵・熟成させるそうな。
北海道や海外の広大な牧草地ではよく見かける風景なのでしょうが、見渡す限り田んぼonlyなこの場所では、ちょっと目を引く景観です。

今までも403号バイパスは季節毎の楽しみがある道でした。
白鳥が落ち穂をついばむ姿や雪化粧していく山なみ、新津のフラワーロードや満開の梨の花。今年開通したこの区間(矢代田~田上)でも、「サイレージの風景」が新たな季節の景観としてドライバーの気持ちを和ませてくれるのでしょう。

ラップ巻器を引っ張るトラクター

眺めのいい部屋

映画「眺めのいい部屋」では、主人公の従姉(イギリス人である)が旅先のフィレンツェでアルノ川添いの部屋が用意されていないことに不満を抱く。上流階級に属する自分たちには当然そういう眺めのいい部屋が用意されるべきという論理がまかり通った時代のことである。

一方、現在では特に日本人旅行者に客室の窓からの眺めに殊更こだわりをもつ人が多いらしい。添乗員や現地の係員にとって、特に新婚旅行のカップルさんには細心の配慮が必要なのだそうな。お忍びで来ているVIP様ならいざしらず、昼間は観光やレジャーでほぼ部屋にいないので、そこまでこだわる合理的な理由はないように思う。しかし客室に案内された時、窓のカーテンを開けたほんの一瞬の感動であったとしても、それが旅の記憶としてはとても重要だという気持ちはわからないでもない。

オンザビーチのコテージからの眺め:樹木や砂浜付きなのは新婚さん御用達の水上コテージよりも上

そんな旅の宿の空間に非日常性の憧れを抱く気持ちは、とりもなおさず日常空間の貧しさの反動なのだろう。大きな窓があって明るいけれどレースのカーテンを開けられない閉ざされた「眺めのない部屋」に慣らされた現代の日本人。かといって圧倒的な眺望を売りにするタワーマンションが本当に「眺めのいい部屋」と呼べるのかも疑問である。木々の緑は感じられないし、下界を見下ろす感覚が先の従姉の階級意識と重なってかなり微妙な心持ちがする。

一昔前の日本家屋において一番眺めのいい部屋はいわゆる座敷であった。庭と融け合ったひと繋がりの空間であり、そもそも全ての建具を引き込めば窓そのものが無くなるように造られていた。そこまでの理想を現代の都市環境で40坪の住宅に求めるのは難しいけれど、設計のなかで窓の位置と大きさを周囲の状況をにらんで工夫する意味は大きい。庭はなくてもいい。窓越しに1本のシンボルツリーの四季を楽しめればいい。何らかのタクラミを持って窓を開ければ、日常の場を正しく「眺めのいい部屋」にできるはずなのである。

みちの景色

地方の活性化と銘うって全国津々浦々、中心市街地の再整備が行われてきている。
その手法のひとつ「かつての街並みを保存再生して観光資源とする」といったスローガンによるものも数多い。

それらは京都や高山など伝統的な木造建築が建ち並ぶ街並みをお手本とするわけだが、いろいろな面で理想と現実のギャップは小さくない。
ひとつの例として「塩沢の牧之通り」。
保存というより道路拡幅を契機に再生された街並みである。
民地を供出した雁木の再生・建築意匠の統一・無電柱化など、多数の利害関係者全員がまちづくりの意義を理解して協力していることが高く評価される所以である。

牧之通りの広すぎる街路。雁木があるのに立派な歩道がその外では!

一方で、如何せん街路の幅が広すぎる。2階建木造建築の高さと街路幅のバランスがよろしくない。
人フレンドリーな景観形成の基本を逸脱した車中心のアメリカ的なスケール感。
絶対的な目標である「賑わいを生む」うえで相当に損をしているとも思う。
街路の向こう側との一体感が薄く、賑わい指数は半分になってしまう。
道の向こうにどんな店があるのかわからないし、簡単には横断できない街路。
現場に行った感想としてはとても悩ましい。

同様の事例は全国にたくさんあるのだが、もともとあった都市計画道路の拡幅計画に相乗りし、資金的な面で国や県の支援を得られたからこそ実現できたのだろうから、そこは割り引いて考えるべきなのだろうか、、、。
理想を言えばキリがないけれど、まちの歴史を発掘するような魅力的な地方活性化を実現するには、地元の人達の意気込みに加えて、関連法令の特例的な解釈や柔軟な予算付けなど行政側の前例に捉われない協力も不可欠なのだと再認識させられる。

通路をだいじに

水と土の芸術祭展示物の内部

路地や通路のように人が歩いて移動する空間がおもしろい。
そこそこ狭くてちょっと曲がっっていたりすればなお良し。
通路本来の機能であるそのさきの目的地へ到達する期待感が生み出しているのではない。
単純に細長い空間そのものが楽しいのだ。
適度な包まれ感の中、歩く過程でだんだんと又リズミカルに景色が変わる。
まち的な「みち」のスケールだとわかりやすい。例えば飲み屋街の路地。
日中はわい雑な街並みでも夜の帳が程よいフィルターをかける。
灯のともった看板や店内から滲み出す賑わいが、細長い空間としてリズムの中に心地よさを演出している。

伏見稲荷の千本鳥居

かたや建築の世界では見捨てられがちな「廊下」や「通路」。
それゆえ、こうしてほしいああしてほしいと細かな注文が発せられない部分でもある。
設計サイドの考え方次第でかえって目玉の空間となりうるのだ。
機能一辺倒で造ってはもったいない。
○と×の典型例は関空と成田(第2)の国際線搭乗口への導線空間。
また、駅のプラットフォームや連絡通路等も規模が規模なだけにその功罪は大きい。
永く存続する公共空間なればこそ、ずっと利用者を楽しませてくれる空間であってほしいものである。

住宅のアプローチ土間空間

ずっと規模は小さくなるけれど、学校やホテル、庁舎やオフィス等の「廊下」も然り。
むしろ人との関係が濃くなるスケールであり、空間の良し悪しが肌で感じられる。
夢々疎かにはできない空間だと思う。

寺子屋

文化財を町の子供に開放するのは色々勇気のいることです。

旅行などで訪ねた場所、予想に反して素晴らしいものに出くわす事がある。
山形県かみのやまの武家屋敷群。
観光客用の入館時間が過ぎていたので、ちょっと外側を眺めるだけのつもりで歩いていくと、一棟だけ明かりが灯いて中から子供たちの声がする。
それが「寺子屋」として活用されている旧曽我部家だった。
古い建築をきちんと管理しつつ、観光資源としてだけではなく、そこに暮らす「市民自身が地域のために有効利用」しているところに意味がある。
子供たちの活動の場として、大人たちがボランティアで運営しているようだ。

古民家はもとより廃校になった校舎や廃線の駅舎など、商用の活用例はよく耳にするようになってきているが、行政主導で子供等の自由な成長を促す施設はなかなかお目にかかれない。
上山市に拍手。
偶然の出会いに感謝。
詳しい情報は下記URLで。

https://www.city.kaminoyama.yamagata.jp/site/kouhoushi/271001.html

乗り物のデザインに思う

観光バスも例外ではなく、「業務用」の乗り物のデザインが面白い。

鉄道車両や飛行機・船舶などはいうに及ばず、農業用のトラクター、ユンボなどの建設機械まで、そういう目で見ているとなかなか優れたデザインのものが多いと感じる。

「業務用」の所以は使う側もプロフェッショナルである事。
高級路線の差別化された意匠であったり、あるいは機能美に徹した潔さまで、評価基準が明確で単なる流行や情緒的な判断からは一線を画す。
それはデザインする側の意欲をも刺激して、妥協のないものを生み出す原動力となっている。
地面に固着しているか移動しているかの違いはあるが、建築家を起用した乗り物も登場している。
街や自然との関係を意識した形態と居心地の良い空間をデザインするというミッションは確実に建築家の守備範囲である。

桜の老大木とバックシャンな sakura bus

一方、乗用車(特に日本の)のデザインには物足りなさを感じて久しい。
デザインの比重が大きな商品であるにもかかわらず(そういう商品だからなのか)、販売台数という命題がデザイン自体に時流への迎合を強いる。
「モノ」へのこだわりが薄れる世相においては、突き抜けた発想や、とんがりすぎた提案は「売れない」の一言で却下されてしまうのだろう。

家づくりの世界も同様。
デザイナー住宅とか建築家の家とかと銘打った俗に言う小洒落た商品が売れているようである。
乗用車のデザインよろしく、売れスジにすり寄っている感じがしてなんとなく気持ちが悪い。

松ヶ丘開墾場

「日本遺産」に認定されるも人影はまばらでのんびり味わえます。
桁行20間以上の大規模な木造建築

とても気持ちのいい場所である。

明治維新の後、シルク産業に活路を見出そうと旧庄内藩士(武士)たちが人力で開墾した台地。
中央を貫く路の両側、桜の老木越しにゆったりと空きをとって5棟の蚕室などが整然と並ぶ。
重要文化財とかといった特別な建物ではないがエリア全体の空気が清々しい。
機能的でおおらかなレイアウトが日常の心の穢れを洗い落としてくれる。

「建築を見にいく」というと、とかくデザインや構法など建築単体のことに目を奪われてしまう。
それはそれで悪くはないのだが、むしろ気持ちをフラットにして「建築のある風景を味わう」くらいで、心のゆとりを持って訪れたい。
そのほうが結果的に記憶に残る経験になっているようにも思う。
その場所の自然や文化・歴史などを参照しつつ。

ps. お休み処では郷土食の「麦きり」もいただけます。

はちまんさま

加茂の八幡神社「はちまんさま」は人と自然が絶妙に調和した場所の好例である。

「森」という自然の中に、人の営みとしての人工物「社殿と参道」が配されている。
それらが折合って一体化し、「神社」という新しい自然ともいうべき風景にバージョンアップ。
社殿が建築されることで森が活かされ、一方、神社は森によってその精神性を獲得する。
双方がwin-winの関係で存在している。
その関係を最大限に引き出しているのが全体の建設計画である。
社殿の大きさやしつらえ、参道の巾や角度など、全ての人の営みは自然の森との対話によって定められたのだろう。

現代建築や橋などの土木構造物。
暴力的とも言えるスケールの大きさゆえに、なおさら周りの景観やその場の歴史を踏まえなければならない。
そうして建ち顕れる新しい自然はその原風景を絶妙に昇華させたものであってほしい。

ここは、そんな建築の基本を再確認できる素敵な場所でもある。

金継ぎ

5月の10連休を利用して金継ぎに挑戦。
カルチャー教室では本うるしや木くそを扱う本格的な技術も学べるようですが、とりあえずは「新うるし」なるものを使ったナンチャッテ流です。

手順は至ってシンプル。
まっぷたつに割れたものはアロンアルファで、欠けてる部分はエポキシパテで補修して耐水ペーパーで表面を滑らかに。
乾いたら新うるしに金粉を混ぜて補修部分を塗る。
1~2日ほど乾燥させればOKです。

難しいのはセンスが問われること。
単純に壊れた部分だけを修復したのでは芸がない。
あえてはみ出させたり垂れさせたりして姿を楽しむのだそうです。
転んでもただでは起きない。
建物のリフォームにもこんな遊び心が欲しいものです。

Keyword「良いものを永く大切に使い続ける」の実践として。

レストランのデザート皿!も金継ぎしてました。

「つくば方式」ってどうよ!

分譲マンションの管理問題がメディアを賑わしている。
中でも深刻なのは築40年以上の古い建物が管理不全に陥り廃墟化が進んでいる事。
「連帯感の欠如」した人たちが「区分所有」あるいは「共有」しているのだから金銭問題がからむ意思統一はほぼ不可能に近い。
バブル期の「地上げ」のように、細分化した権利を統合することができれば、なんらか解決策は見いだせるのかもしれないが、、、。

そんな状況がある一方で、新潟など地方の中核都市でも新規のマンション建設が息を吹き返している。
しっかり完売しているようだ。
安心して「終のすみか」とできるように、十分な修繕積立金と長期の修繕計画が用意され、以前に比べ格段に充実した管理体制をアピールしている。
建物の寿命を延ばそうとする努力は評価に値する。
しかし、単に廃墟化までの時間を稼いでいるにすぎないとも言える。
人の平均寿命の延びに対応する意味はあると思うけれど、権利関係が整理されない限りは、いずれ同じ課題を抱えることに変わりはない。
「街」的な時間軸から見れば、いたずらに問題を先送りしているだけのような気がする。

新旧のマンション群:都市計画の失敗かも。

以前私が所属していた設計事務所では、マンションといえば「賃貸」。
ボスの矜持として頑なに「分譲」の設計は請けてこなかった。
細分化された権利関係がもたらす将来的な混乱を容易に予想できたからである。
デベロッパー主体のパターン化された建築が単純に設計意欲を削いでいたこともあるが、設計者として「街」の未来に対する責任意識も多分に持ち合わせていたつもりであった。
一方で、日本の住宅事情では当たり前に皆老後の安心のためにも「家は買」っておきたいと考える。
賃貸に住み続けて、年金生活に入った途端に高額な家賃が払えず、不便で古ぼけた公共住宅に引っ越すというわけにはいかない。
と考えれば家を買う本来の目的は、その「マンションを所有」したいのではなく「老後もずっと居住」したいという点にある。
もし住まなくなった時には地主に返還される「居住権」のようなものを購入する法制度があればそれで十分なはずである。

良い知恵はないものかと建築計画の世界では、集合住宅のひとつの理想形を模索する試みとして、定期借地権+スケルトンインフィル形式のコーポラティブハウス(通称:つくば方式マンション)というスタイルがあみだされた(詳細はこちら参照)。
30年後の買取オプションなどで将来的には地主に権利関係が集約できるので、根っこの問題は解消される。
また住む側にとってもメリットが多い。
1、土地代(借地権)が安い。
2、インフィルは水周りの配置を含めて購入者が自由に作れる。
3、住民同士の連帯感が生まれる等々。
ところが、一般にはなかなか普及しなかった。
もともと小規模(20戸程度)向きのシステムだったため、大手デベロッパーが参入しなかった事が最大の原因。
小規模なコーポラティブ専門のデベや設計者が音頭をとってしばらくは話題を集めていた時期もあったのだが、購入予定者の意見調整などに莫大な労力を要することで、こちらも皆へこたれてしまった。
ここにきて分譲マンションが本質的に抱える宿命が現実に社会問題化し、遅きに失した感はあるが、もう一度このシステムを復活させてはどうかと思う今日この頃である。

空を埋め尽くさないでくれ。