眺めのいい部屋

映画「眺めのいい部屋」では、主人公の従姉(イギリス人である)が旅先のフィレンツェでアルノ川添いの部屋が用意されていないことに不満を抱く。上流階級に属する自分たちには当然そういう眺めのいい部屋が用意されるべきという論理がまかり通った時代のことである。

一方、現在では特に日本人旅行者に客室の窓からの眺めに殊更こだわりをもつ人が多いらしい。添乗員や現地の係員にとって、特に新婚旅行のカップルさんには細心の配慮が必要なのだそうな。お忍びで来ているVIP様ならいざしらず、昼間は観光やレジャーでほぼ部屋にいないので、そこまでこだわる合理的な理由はないように思う。しかし客室に案内された時、窓のカーテンを開けたほんの一瞬の感動であったとしても、それが旅の記憶としてはとても重要だという気持ちはわからないでもない。

オンザビーチのコテージからの眺め:樹木や砂浜付きなのは新婚さん御用達の水上コテージよりも上

そんな旅の宿の空間に非日常性の憧れを抱く気持ちは、とりもなおさず日常空間の貧しさの反動なのだろう。大きな窓があって明るいけれどレースのカーテンを開けられない閉ざされた「眺めのない部屋」に慣らされた現代の日本人。かといって圧倒的な眺望を売りにするタワーマンションが本当に「眺めのいい部屋」と呼べるのかも疑問である。木々の緑は感じられないし、下界を見下ろす感覚が先の従姉の階級意識と重なってかなり微妙な心持ちがする。

一昔前の日本家屋において一番眺めのいい部屋はいわゆる座敷であった。庭と融け合ったひと繋がりの空間であり、そもそも全ての建具を引き込めば窓そのものが無くなるように造られていた。そこまでの理想を現代の都市環境で40坪の住宅に求めるのは難しいけれど、設計のなかで窓の位置と大きさを周囲の状況をにらんで工夫する意味は大きい。庭はなくてもいい。窓越しに1本のシンボルツリーの四季を楽しめればいい。何らかのタクラミを持って窓を開ければ、日常の場を正しく「眺めのいい部屋」にできるはずなのである。

みちの景色

地方の活性化と銘うって全国津々浦々、中心市街地の再整備が行われてきている。
その手法のひとつ「かつての街並みを保存再生して観光資源とする」といったスローガンによるものも数多い。

それらは京都や高山など伝統的な木造建築が建ち並ぶ街並みをお手本とするわけだが、いろいろな面で理想と現実のギャップは小さくない。
ひとつの例として「塩沢の牧之通り」。
保存というより道路拡幅を契機に再生された街並みである。
民地を供出した雁木の再生・建築意匠の統一・無電柱化など、多数の利害関係者全員がまちづくりの意義を理解して協力していることが高く評価される所以である。

牧之通りの広すぎる街路。雁木があるのに立派な歩道がその外では!

一方で、如何せん街路の幅が広すぎる。2階建木造建築の高さと街路幅のバランスがよろしくない。
人フレンドリーな景観形成の基本を逸脱した車中心のアメリカ的なスケール感。
絶対的な目標である「賑わいを生む」うえで相当に損をしているとも思う。
街路の向こう側との一体感が薄く、賑わい指数は半分になってしまう。
道の向こうにどんな店があるのかわからないし、簡単には横断できない街路。
現場に行った感想としてはとても悩ましい。

同様の事例は全国にたくさんあるのだが、もともとあった都市計画道路の拡幅計画に相乗りし、資金的な面で国や県の支援を得られたからこそ実現できたのだろうから、そこは割り引いて考えるべきなのだろうか、、、。
理想を言えばキリがないけれど、まちの歴史を発掘するような魅力的な地方活性化を実現するには、地元の人達の意気込みに加えて、関連法令の特例的な解釈や柔軟な予算付けなど行政側の前例に捉われない協力も不可欠なのだと再認識させられる。

通路をだいじに

水と土の芸術祭展示物の内部

路地や通路のように人が歩いて移動する空間がおもしろい。
そこそこ狭くてちょっと曲がっっていたりすればなお良し。
通路本来の機能であるそのさきの目的地へ到達する期待感が生み出しているのではない。
単純に細長い空間そのものが楽しいのだ。
適度な包まれ感の中、歩く過程でだんだんと又リズミカルに景色が変わる。
まち的な「みち」のスケールだとわかりやすい。例えば飲み屋街の路地。
日中はわい雑な街並みでも夜の帳が程よいフィルターをかける。
灯のともった看板や店内から滲み出す賑わいが、細長い空間としてリズムの中に心地よさを演出している。

伏見稲荷の千本鳥居

かたや建築の世界では見捨てられがちな「廊下」や「通路」。
それゆえ、こうしてほしいああしてほしいと細かな注文が発せられない部分でもある。
設計サイドの考え方次第でかえって目玉の空間となりうるのだ。
機能一辺倒で造ってはもったいない。
○と×の典型例は関空と成田(第2)の国際線搭乗口への導線空間。
また、駅のプラットフォームや連絡通路等も規模が規模なだけにその功罪は大きい。
永く存続する公共空間なればこそ、ずっと利用者を楽しませてくれる空間であってほしいものである。

住宅のアプローチ土間空間

ずっと規模は小さくなるけれど、学校やホテル、庁舎やオフィス等の「廊下」も然り。
むしろ人との関係が濃くなるスケールであり、空間の良し悪しが肌で感じられる。
夢々疎かにはできない空間だと思う。

寺子屋

文化財を町の子供に開放するのは色々勇気のいることです。

旅行などで訪ねた場所、予想に反して素晴らしいものに出くわす事がある。
山形県かみのやまの武家屋敷群。
観光客用の入館時間が過ぎていたので、ちょっと外側を眺めるだけのつもりで歩いていくと、一棟だけ明かりが灯いて中から子供たちの声がする。
それが「寺子屋」として活用されている旧曽我部家だった。
古い建築をきちんと管理しつつ、観光資源としてだけではなく、そこに暮らす「市民自身が地域のために有効利用」しているところに意味がある。
子供たちの活動の場として、大人たちがボランティアで運営しているようだ。

古民家はもとより廃校になった校舎や廃線の駅舎など、商用の活用例はよく耳にするようになってきているが、行政主導で子供等の自由な成長を促す施設はなかなかお目にかかれない。
上山市に拍手。
偶然の出会いに感謝。
詳しい情報は下記URLで。

https://www.city.kaminoyama.yamagata.jp/site/kouhoushi/271001.html

乗り物のデザインに思う

観光バスも例外ではなく、「業務用」の乗り物のデザインが面白い。

鉄道車両や飛行機・船舶などはいうに及ばず、農業用のトラクター、ユンボなどの建設機械まで、そういう目で見ているとなかなか優れたデザインのものが多いと感じる。

「業務用」の所以は使う側もプロフェッショナルである事。
高級路線の差別化された意匠であったり、あるいは機能美に徹した潔さまで、評価基準が明確で単なる流行や情緒的な判断からは一線を画す。
それはデザインする側の意欲をも刺激して、妥協のないものを生み出す原動力となっている。
地面に固着しているか移動しているかの違いはあるが、建築家を起用した乗り物も登場している。
街や自然との関係を意識した形態と居心地の良い空間をデザインするというミッションは確実に建築家の守備範囲である。

桜の老大木とバックシャンな sakura bus

一方、乗用車(特に日本の)のデザインには物足りなさを感じて久しい。
デザインの比重が大きな商品であるにもかかわらず(そういう商品だからなのか)、販売台数という命題がデザイン自体に時流への迎合を強いる。
「モノ」へのこだわりが薄れる世相においては、突き抜けた発想や、とんがりすぎた提案は「売れない」の一言で却下されてしまうのだろう。

家づくりの世界も同様。
デザイナー住宅とか建築家の家とかと銘打った俗に言う小洒落た商品が売れているようである。
乗用車のデザインよろしく、売れスジにすり寄っている感じがしてなんとなく気持ちが悪い。

松ヶ丘開墾場

「日本遺産」に認定されるも人影はまばらでのんびり味わえます。
桁行20間以上の大規模な木造建築

とても気持ちのいい場所である。

明治維新の後、シルク産業に活路を見出そうと旧庄内藩士(武士)たちが人力で開墾した台地。
中央を貫く路の両側、桜の老木越しにゆったりと空きをとって5棟の蚕室などが整然と並ぶ。
重要文化財とかといった特別な建物ではないがエリア全体の空気が清々しい。
機能的でおおらかなレイアウトが日常の心の穢れを洗い落としてくれる。

「建築を見にいく」というと、とかくデザインや構法など建築単体のことに目を奪われてしまう。
それはそれで悪くはないのだが、むしろ気持ちをフラットにして「建築のある風景を味わう」くらいで、心のゆとりを持って訪れたい。
そのほうが結果的に記憶に残る経験になっているようにも思う。
その場所の自然や文化・歴史などを参照しつつ。

ps. お休み処では郷土食の「麦きり」もいただけます。

はちまんさま

加茂の八幡神社「はちまんさま」は人と自然が絶妙に調和した場所の好例である。

「森」という自然の中に、人の営みとしての人工物「社殿と参道」が配されている。
それらが折合って一体化し、「神社」という新しい自然ともいうべき風景にバージョンアップ。
社殿が建築されることで森が活かされ、一方、神社は森によってその精神性を獲得する。
双方がwin-winの関係で存在している。
その関係を最大限に引き出しているのが全体の建設計画である。
社殿の大きさやしつらえ、参道の巾や角度など、全ての人の営みは自然の森との対話によって定められたのだろう。

現代建築や橋などの土木構造物。
暴力的とも言えるスケールの大きさゆえに、なおさら周りの景観やその場の歴史を踏まえなければならない。
そうして建ち顕れる新しい自然はその原風景を絶妙に昇華させたものであってほしい。

ここは、そんな建築の基本を再確認できる素敵な場所でもある。

イスタンブール

ミマール・スィナン(16世紀オスマン帝国の建築家)のモスクを見てきました。
地震国トルコで、30Mクラスの石造ドームを組み上げる構造的センスは、日本の重源やスペインのガウディの建築と共通するものを感じます。
人の心を揺さぶる空間は秀逸な構造デザインのたまものなのだと再認識させられました。
構造的な明快さがあるがゆえのイズミックタイルや色漆喰で描かれた細密装飾なのだと。

ライトアップしている訳ではありません。自然光でドームが浮かび上がっています。

ブルーモスクやアヤソフィアなどの観光名所は冬にもかかわらずごった返していましたが、スィナンのモスクは比較的ゆっくり見学できます。
地図を片手に歩き回ったり、高速バスで1日がかりだったりしますが、十分に苦労してみる価値はあります。
それが旅行の醍醐味でもあるし。

冬のイスタンブールは傘が手放せません。

それにしてもイスタンブールの旧市街には、あの巨大なドームと尖塔が街のいたるところに沢山あることに驚かされます。モスクだらけです(京都もお寺だらけではあるけれど)。そして、どこもちゃんと日常的に使われている。1日5回の礼拝に通うためには、家や職場から徒歩5分くらいの近さが必須だったのでしょうね。

冬のカッパドキア

トルコ航空機内TVのタイトル画像の1枚に、美しい雪景色の写真があった。
なんと今向かっているカッパドキアではないですか。
え~雪降るんだ。
冬はかなり寒いと聞いてはいたけれど、、、。
高度を下げた飛行機の窓外に現れたのは、マジで雪の越後平野でした!天気は快晴。
気温が日中でも氷点下なので少しの雪でもほとんど融けないようです。

スキーできます。

世界遺産の観光地として奇岩の景観でつとに有名なカッパドキア。
実はトルコ(お酒を飲まないお国柄です)では珍しい「ワインの里」なのだそうです。壮大な地下都市の存在など歴史的には未解明な部分も多いけれど、断崖の岩肌に穿たれた洞窟住居と教会の遺構はワイン醸造の伝統と併せて、かつてこの地がキリスト教徒らの隠れ里だったことの証左となっている。

豊島美術館

内部は撮影禁止です。

先日、長岡で建築写真の展覧会が開催されていて、その時の講演で「写真では伝えきれない空間」の話題が出ていました。
そんな折、実際行ってきた人から「なかなか良い」と聞かされていた豊島美術館を訪れてきました。
「ほんとに良い」です。
ちょっと息をのむ感じ。
低くて広くて丸っこくて穴があいてる白い空間。
伝えきれません。
もちろん事前に写真や文章での情報は入っていたのですが、、、。

こうやって地球のはてまで彷徨っていくことになるのですね。
写真ではわからない何かを求めて。

こちらは隣島の直島ホール。
ここも広くてちょっと丸っこくて穴があいてる白い空間。
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