建築の時間

コルテン鋼の建築

錆びた鉄には特別な味がある。

目に見えない「時間」を可視化しているからか。

誕生からの歴史と朽ち果てるまでの未来。

あたかも人が生まれる前から存在し、

人の命が尽きてからもずっとそこにあり続けるような感覚。

錆鉄の広場

風化したコンクリートや灰白化した木材にも同じチカラを感じる。

床・壁・柱・梁、それぞれに刻み込まれた記憶で建築は時間を胚胎する。

創建当時の時代背景や人々の暮らし。

建造に関わった人達の思いや困難をのりこえるための熱。

心静かに空間の中に身をおこうとしても、

そんな事を想像しだすと、やおらドキドキが止まらなくなる。

シャッターチャンス

通勤で新潟~加茂を車で往復している。
田んぼの真中をつっきるバイパス道は見通しもよく突然ハッとするような美しい風景に出くわすことがある。

車を停めてしばし眺めていたり写真におさめたりしたいと思うのだが、即座にハザードランプをつける思い切りがない。
もう少し先の車を停めやすい場所でとかと考えているうちに段々と見る角度が変化して凡庸な風景に変わってしまう。
本当はUターンしてでもその場所にもどるべきなのだが、次の機会があるだろうと勝手に自分を納得させてしまい、おおいに後悔することになる。
特に夕焼けや朝霧など、刻々と変化する自然現象は一瞬でチャンスを逃してしまう。
次の日の同じ時刻に同じ場所を訪れたとしても、なかなかその感動的な風景は再現されない。
まさに一期一会なのだ。

数字ばかりが独り歩きする世知辛い世の中だからこそ、ちょっとみちくさできるくらいに時間と心にゆとりを持ちたいと思う。

目の前を何気なく通り過ぎてゆくチャンス。それらを感度よくつかまえられるためにも。

車じゃなければチャンスを逃さない。

スカイライト

十日町にある「光の館」。
大地の芸術祭の作品のひとつである。

https://hikarinoyakata.com/space/

来訪者はたたみに寝っ転がり、屋根に開けた正方形の穴から切り取られた空を眺めるしつらえになっている。額縁効果で純粋化された空を眺めていると時間が止まって心がやすらいでくる感じ。実際に体験された方も多いのでは。

建築的には、トップライトのひとつなので特に難しい事はないが、空の効果を最大限引き出すために、空間寸法やフレームを消すディテールなど繊細な感覚が駆使されている。

ところで、この穴、自分の家にも欲しくありませんか?
窓からの風景とは違って、建て込んだ市街地でも空は誰にも邪魔されません。
リモートワークの息抜きにはもってこいかも。

中庭の空
車の空

「サイレージ」の風景

越後平野の田園風景のど真ん中、白い円筒形の巨大マシュマロを発見。
これ、サイレージという牛の飼料です。刈り取った草をベーラーという機械でベール(巨大マシュマロの形)に成形し、それをラップでグルグル巻きにして発酵・熟成させるそうな。
北海道や海外の広大な牧草地ではよく見かける風景なのでしょうが、見渡す限り田んぼonlyなこの場所では、ちょっと目を引く景観です。

今までも403号バイパスは季節毎の楽しみがある道でした。
白鳥が落ち穂をついばむ姿や雪化粧していく山なみ、新津のフラワーロードや満開の梨の花。今年開通したこの区間(矢代田~田上)でも、「サイレージの風景」が新たな季節の景観としてドライバーの気持ちを和ませてくれるのでしょう。

ラップ巻器を引っ張るトラクター

みちの景色

地方の活性化と銘うって全国津々浦々、中心市街地の再整備が行われてきている。
その手法のひとつ「かつての街並みを保存再生して観光資源とする」といったスローガンによるものも数多い。

それらは京都や高山など伝統的な木造建築が建ち並ぶ街並みをお手本とするわけだが、いろいろな面で理想と現実のギャップは小さくない。
ひとつの例として「塩沢の牧之通り」。
保存というより道路拡幅を契機に再生された街並みである。
民地を供出した雁木の再生・建築意匠の統一・無電柱化など、多数の利害関係者全員がまちづくりの意義を理解して協力していることが高く評価される所以である。

牧之通りの広すぎる街路。雁木があるのに立派な歩道がその外では!

一方で、如何せん街路の幅が広すぎる。2階建木造建築の高さと街路幅のバランスがよろしくない。
人フレンドリーな景観形成の基本を逸脱した車中心のアメリカ的なスケール感。
絶対的な目標である「賑わいを生む」うえで相当に損をしているとも思う。
街路の向こう側との一体感が薄く、賑わい指数は半分になってしまう。
道の向こうにどんな店があるのかわからないし、簡単には横断できない街路。
現場に行った感想としてはとても悩ましい。

同様の事例は全国にたくさんあるのだが、もともとあった都市計画道路の拡幅計画に相乗りし、資金的な面で国や県の支援を得られたからこそ実現できたのだろうから、そこは割り引いて考えるべきなのだろうか、、、。
理想を言えばキリがないけれど、まちの歴史を発掘するような魅力的な地方活性化を実現するには、地元の人達の意気込みに加えて、関連法令の特例的な解釈や柔軟な予算付けなど行政側の前例に捉われない協力も不可欠なのだと再認識させられる。

金継ぎ

5月の10連休を利用して金継ぎに挑戦。
カルチャー教室では本うるしや木くそを扱う本格的な技術も学べるようですが、とりあえずは「新うるし」なるものを使ったナンチャッテ流です。

手順は至ってシンプル。
まっぷたつに割れたものはアロンアルファで、欠けてる部分はエポキシパテで補修して耐水ペーパーで表面を滑らかに。
乾いたら新うるしに金粉を混ぜて補修部分を塗る。
1~2日ほど乾燥させればOKです。

難しいのはセンスが問われること。
単純に壊れた部分だけを修復したのでは芸がない。
あえてはみ出させたり垂れさせたりして姿を楽しむのだそうです。
転んでもただでは起きない。
建物のリフォームにもこんな遊び心が欲しいものです。

Keyword「良いものを永く大切に使い続ける」の実践として。

レストランのデザート皿!も金継ぎしてました。

「つくば方式」ってどうよ!

分譲マンションの管理問題がメディアを賑わしている。
中でも深刻なのは築40年以上の古い建物が管理不全に陥り廃墟化が進んでいる事。
「連帯感の欠如」した人たちが「区分所有」あるいは「共有」しているのだから金銭問題がからむ意思統一はほぼ不可能に近い。
バブル期の「地上げ」のように、細分化した権利を統合することができれば、なんらか解決策は見いだせるのかもしれないが、、、。

そんな状況がある一方で、新潟など地方の中核都市でも新規のマンション建設が息を吹き返している。
しっかり完売しているようだ。
安心して「終のすみか」とできるように、十分な修繕積立金と長期の修繕計画が用意され、以前に比べ格段に充実した管理体制をアピールしている。
建物の寿命を延ばそうとする努力は評価に値する。
しかし、単に廃墟化までの時間を稼いでいるにすぎないとも言える。
人の平均寿命の延びに対応する意味はあると思うけれど、権利関係が整理されない限りは、いずれ同じ課題を抱えることに変わりはない。
「街」的な時間軸から見れば、いたずらに問題を先送りしているだけのような気がする。

新旧のマンション群:都市計画の失敗かも。

以前私が所属していた設計事務所では、マンションといえば「賃貸」。
ボスの矜持として頑なに「分譲」の設計は請けてこなかった。
細分化された権利関係がもたらす将来的な混乱を容易に予想できたからである。
デベロッパー主体のパターン化された建築が単純に設計意欲を削いでいたこともあるが、設計者として「街」の未来に対する責任意識も多分に持ち合わせていたつもりであった。
一方で、日本の住宅事情では当たり前に皆老後の安心のためにも「家は買」っておきたいと考える。
賃貸に住み続けて、年金生活に入った途端に高額な家賃が払えず、不便で古ぼけた公共住宅に引っ越すというわけにはいかない。
と考えれば家を買う本来の目的は、その「マンションを所有」したいのではなく「老後もずっと居住」したいという点にある。
もし住まなくなった時には地主に返還される「居住権」のようなものを購入する法制度があればそれで十分なはずである。

良い知恵はないものかと建築計画の世界では、集合住宅のひとつの理想形を模索する試みとして、定期借地権+スケルトンインフィル形式のコーポラティブハウス(通称:つくば方式マンション)というスタイルがあみだされた(詳細はこちら参照)。
30年後の買取オプションなどで将来的には地主に権利関係が集約できるので、根っこの問題は解消される。
また住む側にとってもメリットが多い。
1、土地代(借地権)が安い。
2、インフィルは水周りの配置を含めて購入者が自由に作れる。
3、住民同士の連帯感が生まれる等々。
ところが、一般にはなかなか普及しなかった。
もともと小規模(20戸程度)向きのシステムだったため、大手デベロッパーが参入しなかった事が最大の原因。
小規模なコーポラティブ専門のデベや設計者が音頭をとってしばらくは話題を集めていた時期もあったのだが、購入予定者の意見調整などに莫大な労力を要することで、こちらも皆へこたれてしまった。
ここにきて分譲マンションが本質的に抱える宿命が現実に社会問題化し、遅きに失した感はあるが、もう一度このシステムを復活させてはどうかと思う今日この頃である。

空を埋め尽くさないでくれ。

佐渡のパッションフルーツ

佐渡産のパッションフルーツを食べた。
好物だったので佐渡の魚の直売所で見かけて衝動買い。
酸っぱ甘くておいしかったです。
南国のフルーツと思っていたのに、佐渡でもつくってたのね。
生産者の発想と努力に脱帽。

ところで昨今の果物業界って「糖度」戦争みたいになってませんか。
糖度が高いと高級フルーツみたいな。
甘けりゃ良いってもんじゃないよね。
単純な評価軸でつっ走っちゃういまどきの世相を反映してる感じがしてどうもいただけない。
「あま~い」とか「やわらか~い」しか言えないような語彙欠乏症の食レポーターも乱造しています。

やっぱり果物はそれぞれの風味や食感にみあった甘さであってほしい。その加減をわきまえている事が美味さの秘訣かと。なかでもパッションフルーツや、いちじく・柿なんかは見た目が味とリンクしているあたりが最高なんじゃない!。

新潟のBRT

先日、新潟駅前からBRTに乗ってみた。
古町での飲み会に行くためである。
残念ながら、何かが「変わった」のだと感じられるものがない。
「魅力的で人にやさしい未来の新潟市」を予感させるものがない。
巷では乗り換えの不便さや、税金の無駄づかいだとの指摘から廃止論まで飛び出すありさまだ。
メディアはメディアで、前後の脈絡は省略して小さな不具合の事実だけを小ネタ的に垂れ流す。
確かに現状は30億の税金が有効に機能しているとは実感できないし、むしろ不便になったという意見ももっともな指摘であると思う。
最初の一歩であるとはいえ、いや、最初の一歩だからこそ「あ!変わったねっ。」と感じられる何かをうみだす必要があったはずだ。
その部分については初期投資予算の少なさを言い訳にしてはいけないと思う。
しかし、新潟市の公共交通システムの改革は絶対に必要な喫緊の課題だという思いは変わっていない。
蹴つまづきながらでも、その具体的な一歩を踏み出した意味は小さくないし、机上論から実際に運行が始まった事で、市民の関心も高まった。
身近な問題としてやっと本気で議論できる土壌がととのった事こそが重要である。
何故やらなければいけないのか、どんな未来像をえがいているのか、その点で市民のコンセンサスをまとめあげ、冷静に原点を見つめ直すよい機会である。
そういう土壌をつくる為の30億であると割り切れば、あながち高い買い物ではなかったのではと思う。
人の心を動かす値段はプライスレスなのだから。

5分毎にバスは来るが、連接バスは1時間に1便。

「ビッグスワン」ってどう?

今般の国立競技場の騒動で、ひとつ良かったかなと思う事がある。
それは、スタジアム建築のような巨大構造物のデザインが、居酒屋談義として誰でも話せるみじかな話題にのぼった事。
純粋に建築としての美しさや機能性、歴史や周辺環境をふくめた総合的な計画の意味などをかたっていたわけではないにせよ、少なくとも建築のトピックが、(切り口については横においとくとして)連日のようにメディアでも語られつづけた例はいままで記憶になかった事である。

そんななか地元新潟のビッグスワンスタジアムはどうだろう。
Jリーグの発足から2002年のW杯の開催を経て、日本国内にも多くのサッカースタジアムが建設されてきた。
それまでの陸上競技場と大きく異なるのは、観客席の大部分が屋根で覆われている事。
まさに「スタジアム」と呼ぶにふさわしい建築物なのである。

最初にビッグスワンをみたのは確か2001年のコンフェデレーションズ杯のとき。
その時は新幹線の車窓からみえてきた姿に、その巨大さゆえ好印象はもてなかった事を覚えている。
しかし、実際に地上レベルから近づいていくと、全然違う感覚に変わった。
威圧感のようなものは感じられない。
広大な公園計画の中のロケーションの良さや、幕屋根の軽さ、基壇部分のみを垂直面とした配慮など、設計者の手練れを感じる。
なかなかどうして、少なくとも日本のスタジアムの中では優れたデザインのひとつにかぞえられるのではないだろうかと。

一方、世界ではスタジアム建築Best10などといった公式・非公式なコンクール等も行われているようだ。
建築的なかっこよさ、サッカー観戦空間としての質に対してランキング付けをして楽しんでいる。
それだけ建築もサッカーも文化として根付いている事の証しなのだろう。
おくればせながら日本のサッカースタジアムも量から質の時代をむかえ、サッカー専用スタジアムの臨場感はなにものにもかえがたいとの声が高まっている。
ビッグスワンがもし陸上トラックのないサッカー専用であったなら、、、
おらがチームのホームスタジアムとして堂々と世界に自慢したいところなのだが。

ペーパークラフト:世界レベルのスーベニア
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