金継ぎ

5月の10連休を利用して金継ぎに挑戦。
カルチャー教室では本うるしや木くそを扱う本格的な技術も学べるようですが、とりあえずは「新うるし」なるものを使ったナンチャッテ流です。

手順は至ってシンプル。
まっぷたつに割れたものはアロンアルファで、欠けてる部分はエポキシパテで補修して耐水ペーパーで表面を滑らかに。
乾いたら新うるしに金粉を混ぜて補修部分を塗る。
1~2日ほど乾燥させればOKです。

難しいのはセンスが問われること。
単純に壊れた部分だけを修復したのでは芸がない。
あえてはみ出させたり垂れさせたりして姿を楽しむのだそうです。
転んでもただでは起きない。
建物のリフォームにもこんな遊び心が欲しいものです。

Keyword「良いものを永く大切に使い続ける」の実践として。

レストランのデザート皿!も金継ぎしてました。

「つくば方式」ってどうよ!

分譲マンションの管理問題がメディアを賑わしている。
中でも深刻なのは築40年以上の古い建物が管理不全に陥り廃墟化が進んでいる事。
「連帯感の欠如」した人たちが「区分所有」あるいは「共有」しているのだから金銭問題がからむ意思統一はほぼ不可能に近い。
バブル期の「地上げ」のように、細分化した権利を統合することができれば、なんらか解決策は見いだせるのかもしれないが、、、。

そんな状況がある一方で、新潟など地方の中核都市でも新規のマンション建設が息を吹き返している。
しっかり完売しているようだ。
安心して「終のすみか」とできるように、十分な修繕積立金と長期の修繕計画が用意され、以前に比べ格段に充実した管理体制をアピールしている。
建物の寿命を延ばそうとする努力は評価に値する。
しかし、単に廃墟化までの時間を稼いでいるにすぎないとも言える。
人の平均寿命の延びに対応する意味はあると思うけれど、権利関係が整理されない限りは、いずれ同じ課題を抱えることに変わりはない。
「街」的な時間軸から見れば、いたずらに問題を先送りしているだけのような気がする。

新旧のマンション群:都市計画の失敗かも。

以前私が所属していた設計事務所では、マンションといえば「賃貸」。
ボスの矜持として頑なに「分譲」の設計は請けてこなかった。
細分化された権利関係がもたらす将来的な混乱を容易に予想できたからである。
デベロッパー主体のパターン化された建築が単純に設計意欲を削いでいたこともあるが、設計者として「街」の未来に対する責任意識も多分に持ち合わせていたつもりであった。
一方で、日本の住宅事情では当たり前に皆老後の安心のためにも「家は買」っておきたいと考える。
賃貸に住み続けて、年金生活に入った途端に高額な家賃が払えず、不便で古ぼけた公共住宅に引っ越すというわけにはいかない。
と考えれば家を買う本来の目的は、その「マンションを所有」したいのではなく「老後もずっと居住」したいという点にある。
もし住まなくなった時には地主に返還される「居住権」のようなものを購入する法制度があればそれで十分なはずである。

良い知恵はないものかと建築計画の世界では、集合住宅のひとつの理想形を模索する試みとして、定期借地権+スケルトンインフィル形式のコーポラティブハウス(通称:つくば方式マンション)というスタイルがあみだされた(詳細はこちら参照)。
30年後の買取オプションなどで将来的には地主に権利関係が集約できるので、根っこの問題は解消される。
また住む側にとってもメリットが多い。
1、土地代(借地権)が安い。
2、インフィルは水周りの配置を含めて購入者が自由に作れる。
3、住民同士の連帯感が生まれる等々。
ところが、一般にはなかなか普及しなかった。
もともと小規模(20戸程度)向きのシステムだったため、大手デベロッパーが参入しなかった事が最大の原因。
小規模なコーポラティブ専門のデベや設計者が音頭をとってしばらくは話題を集めていた時期もあったのだが、購入予定者の意見調整などに莫大な労力を要することで、こちらも皆へこたれてしまった。
ここにきて分譲マンションが本質的に抱える宿命が現実に社会問題化し、遅きに失した感はあるが、もう一度このシステムを復活させてはどうかと思う今日この頃である。

空を埋め尽くさないでくれ。

イスタンブール

ミマール・スィナン(16世紀オスマン帝国の建築家)のモスクを見てきました。
地震国トルコで、30Mクラスの石造ドームを組み上げる構造的センスは、日本の重源やスペインのガウディの建築と共通するものを感じます。
人の心を揺さぶる空間は秀逸な構造デザインのたまものなのだと再認識させられました。
構造的な明快さがあるがゆえのイズミックタイルや色漆喰で描かれた細密装飾なのだと。

ライトアップしている訳ではありません。自然光でドームが浮かび上がっています。

ブルーモスクやアヤソフィアなどの観光名所は冬にもかかわらずごった返していましたが、スィナンのモスクは比較的ゆっくり見学できます。
地図を片手に歩き回ったり、高速バスで1日がかりだったりしますが、十分に苦労してみる価値はあります。
それが旅行の醍醐味でもあるし。

冬のイスタンブールは傘が手放せません。

それにしてもイスタンブールの旧市街には、あの巨大なドームと尖塔が街のいたるところに沢山あることに驚かされます。モスクだらけです(京都もお寺だらけではあるけれど)。そして、どこもちゃんと日常的に使われている。1日5回の礼拝に通うためには、家や職場から徒歩5分くらいの近さが必須だったのでしょうね。

冬のカッパドキア

トルコ航空機内TVのタイトル画像の1枚に、美しい雪景色の写真があった。
なんと今向かっているカッパドキアではないですか。
え~雪降るんだ。
冬はかなり寒いと聞いてはいたけれど、、、。
高度を下げた飛行機の窓外に現れたのは、マジで雪の越後平野でした!天気は快晴。
気温が日中でも氷点下なので少しの雪でもほとんど融けないようです。

スキーできます。

世界遺産の観光地として奇岩の景観でつとに有名なカッパドキア。
実はトルコ(お酒を飲まないお国柄です)では珍しい「ワインの里」なのだそうです。壮大な地下都市の存在など歴史的には未解明な部分も多いけれど、断崖の岩肌に穿たれた洞窟住居と教会の遺構はワイン醸造の伝統と併せて、かつてこの地がキリスト教徒らの隠れ里だったことの証左となっている。

佐渡のパッションフルーツ

佐渡産のパッションフルーツを食べた。
好物だったので佐渡の魚の直売所で見かけて衝動買い。
酸っぱ甘くておいしかったです。
南国のフルーツと思っていたのに、佐渡でもつくってたのね。
生産者の発想と努力に脱帽。

ところで昨今の果物業界って「糖度」戦争みたいになってませんか。
糖度が高いと高級フルーツみたいな。
甘けりゃ良いってもんじゃないよね。
単純な評価軸でつっ走っちゃういまどきの世相を反映してる感じがしてどうもいただけない。
「あま~い」とか「やわらか~い」しか言えないような語彙欠乏症の食レポーターも乱造しています。

やっぱり果物はそれぞれの風味や食感にみあった甘さであってほしい。その加減をわきまえている事が美味さの秘訣かと。なかでもパッションフルーツや、いちじく・柿なんかは見た目が味とリンクしているあたりが最高なんじゃない!。

大人の修学旅行

このところ観光バスを仕立てての団体旅行に参加する機会が増えた。
といっても年に1回くらいのものなのだが、修学旅行以来といっていいほど遠い記憶しかなかったので、いたって新鮮味がある。
先日は京都まで片道8時間!のバス移動。
飛行機なら1時間でいけるのにと、かなりゲッソリした気分だったのだけれど実際は全然楽チンなのである。
それもそのはず、バスの後ろ半分は「移動宴会場」になっていたので退屈する事はありません。
飛行機での8時間だと眠らない事にはとても間がもちません。
トイレ休憩がちょうどいいアクセントになるし、
とにかく沢山の目的地にダイレクトに連れて行ってもらえるのは、ある意味VIP待遇並みといえるかもしれません。

みんな最新型の機材です。

常々旅の醍醐味は自分の脚と公共交通機関を駆使した移動にある、と筋肉痛におびえつつ強がりを言ってきた身としては、目からうろこ。
「旅」と呼べるのかはさておいて、「おとなの修学旅行」と割り切ってしまえば観光バスの団体旅行も思いのほか楽しいものですよ。

藤田美術館

ほんとに質素なたたずまいです。

大阪の藤田美術館に行ってきた。
施設建て替え前最後の展示という事もあって、国宝の「窯変天目茶碗」をおがんでおこうかなと。
単に目の保養にとの発想でおとずれたのですが、結果いろいろ考えさせられることに、、、。

まず、今回の展示内容は出色でした。
ほとんどが国宝か重文。私設の美術館として、これだけの「文化財」を所蔵している事に驚愕です。
パンフレットの説明によれば、
「藤田傳三郎は、明治維新後の廃仏毀釈などの影響から、歴史的な仏教美術品の数多くが海外へ流出していることに憂慮し、これを阻止するために膨大な財を投じました。」
との事。
西欧化に邁進したこの時代に日本の古美術の価値をはっきりと認識していた事におどろかされます。
建築もそうですが、日本建築の美しさや価値は海外の研究者によってみいだされた歴史をもっています。
ブルーノタウトやノーマンFカーヴァ。
当時の日本の人々にとって見なれた日本建築の形や空間が、実はひとつの芸術作品であるとはなかなか気付けなかった時代です。

一方この美術館、収蔵品のすばらしさに比べて展示施設がほんとに質素なのです。
展示室は2階建の蔵1棟、40坪位の広さしかありません。
それをなんの変哲もないモルタル塗りの洋風建屋で覆って、蔵との隙間を受け付けや事務室としています。
入場料も800円と超良心的なお値段。

この春、オークションで中国関連の美術品30点を300億で売却との報道は記憶にあたらしいところです。
確かにこの質素すぎる展示施設を建替えなければならないという事情は十分理解できました。
おそらく中国マネーが落札するだろうとの予測のもと、売却された美術品がオリジナルな場所に戻るという事も考慮されていたのだと思います。
傳三郎翁の意志を確実に受け継ぐかたちで。

これも美術品として保存しようと自分の庭に移築したのだそうです。


プラットホーム

何気ないこんな空間に惹かれてしまう。
小さな鉄骨部材をサクサクと組み合わせただけのいたって合理的な構造。
それに絡まるトップライトからの縞々の光が魔法をかける。
全体の明るさも丁度いい。
駅ビルにしちゃうとこうはいかない。
終着駅なので、いちばん端っこからの風景になるのも良い。
大阪・天王寺駅の阪和線プラットホームでした。

ひるがえって、新しい新潟駅のホームはどんな空間になるのだろう。
確か在来線も最上階に乗り入れる計画だったと記憶している。
どんな光のマジックを考えているのだろうか。
期待と不安が交錯する。

新潟のBRT

先日、新潟駅前からBRTに乗ってみた。
古町での飲み会に行くためである。
残念ながら、何かが「変わった」のだと感じられるものがない。
「魅力的で人にやさしい未来の新潟市」を予感させるものがない。
巷では乗り換えの不便さや、税金の無駄づかいだとの指摘から廃止論まで飛び出すありさまだ。
メディアはメディアで、前後の脈絡は省略して小さな不具合の事実だけを小ネタ的に垂れ流す。
確かに現状は30億の税金が有効に機能しているとは実感できないし、むしろ不便になったという意見ももっともな指摘であると思う。
最初の一歩であるとはいえ、いや、最初の一歩だからこそ「あ!変わったねっ。」と感じられる何かをうみだす必要があったはずだ。
その部分については初期投資予算の少なさを言い訳にしてはいけないと思う。
しかし、新潟市の公共交通システムの改革は絶対に必要な喫緊の課題だという思いは変わっていない。
蹴つまづきながらでも、その具体的な一歩を踏み出した意味は小さくないし、机上論から実際に運行が始まった事で、市民の関心も高まった。
身近な問題としてやっと本気で議論できる土壌がととのった事こそが重要である。
何故やらなければいけないのか、どんな未来像をえがいているのか、その点で市民のコンセンサスをまとめあげ、冷静に原点を見つめ直すよい機会である。
そういう土壌をつくる為の30億であると割り切れば、あながち高い買い物ではなかったのではと思う。
人の心を動かす値段はプライスレスなのだから。

5分毎にバスは来るが、連接バスは1時間に1便。

豊島美術館

内部は撮影禁止です。

先日、長岡で建築写真の展覧会が開催されていて、その時の講演で「写真では伝えきれない空間」の話題が出ていました。
そんな折、実際行ってきた人から「なかなか良い」と聞かされていた豊島美術館を訪れてきました。
「ほんとに良い」です。
ちょっと息をのむ感じ。
低くて広くて丸っこくて穴があいてる白い空間。
伝えきれません。
もちろん事前に写真や文章での情報は入っていたのですが、、、。

こうやって地球のはてまで彷徨っていくことになるのですね。
写真ではわからない何かを求めて。

こちらは隣島の直島ホール。
ここも広くてちょっと丸っこくて穴があいてる白い空間。
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